ラーフ理事長
毛利 公一(もうりこういち)
明るく前向き、そして負けず嫌いな性格です。
頚髄損傷で首から上が動くだけの身体ですが、持ち前の性格で人生突き進んでます!
プロフィール
障がい福祉サービス事業所やまももに名称変更
日本福祉大学卒業
私は小学生の時に陸上競技を始めて、中学生の時に棒高跳びに出会いました。 私は絶望しませんでした。自分の人生をベッド上だと決められたことに憤りを感じ、「必ずもう一度立って歩く。世界初になる。」と強く誓いました。 まずは呼吸機を外すこと。機械に合わせて呼吸のイメージを重ねて必死に呼吸しようとしました。無理に外してみたりもしました。その度に窒息と呼吸困難。し かし、それを続けること半年、奇蹟的に身体が呼吸を始めました。それからも、四六時中呼吸の訓練。呼吸機を完全に外せたのは、それから1年後のことでした。 呼吸の訓練をしながら、感覚の訓練、手を手と感じること、足を足だと認識すること、座る訓練、手足を動かす訓練…特に座る訓練では、何度も気絶しました。しかし、どれも毎日続けました。 「もう一度立って歩くこと」諦めずに毎日続ける事で、ほんの少しずつ動きや感覚が返っています。そして今は3人に支えられながらではあるけれど、立って足を前に出す訓練をしています。 今は医学は日々進化しています。脊髄などの神経再生医療の研究も急速に進歩しています。今後、再生医療で脊髄神経は再生できるようになるはずです。そう期待しています。しかし、手術や治療で神経が繋がっても、手足の動かし方、座り方、歩き方を忘れてしまっていたら、神経が繋がっても意味がありません。棒高跳びの実績
ベスト記録 4m20
98′ 香川インターハイ14位
99′ 岩手インターハイ3位、日本ジュニア選手権6位
岩手インターハイフィールド総合優勝、総合3位
ベスト記録 5m00
スポーツ科学科03′ 関東インカレ優勝
ベスト記録 5m10受傷からの経緯
12年の競技生活を経て、2004年4月、私は棒高跳びのコーチになる為の経験と語学の勉強の為、単身アメリカのカリフォルニア州に留学しました。
それから3ヶ月後の7月17日。語学学校の友人たちと初めてビーチに遊びに行った日、私は大きな波に打たれ、肩から下の動きと触覚、温感、冷感など全ての感覚を失いました。診断結果は、C3頸髄損傷(四肢完全麻痺)。当初私は、呼吸すらできない瞬きだけの身体でした。そして医師から告げられた言葉は「一生ベッド上の生活、呼吸機も外す事はできないでしょう。歩けるようになった人は世界中にもいません。」
私と同じくもう一度何かをしてやろうと思っている方に、「希望を持って諦めずに努力を続けよう」と伝えたい。